じぃじ ばぁばのおもい

じいじ&ばあば

迷ってませんか?困ってませんか?

障害児の孫が生まれて、皆さんのところはどうでしたか?
すぐ受け入れて、兄弟がいるなら、その子たちと分け隔てなく、孫を可愛がって貰ってますか? それとも全くその反対で、ダッコさえもしてもらってないとか…。家族が多いほど、その受け入れ方にもいろいろありますよね。
ある日突然やってきた障害児は、ひょっとしたら、じぃじやばぁば達にとってみればパパやママ以上にショックが大きいのかも知れません。
ママとその実の親、じぃじ&ばぁばの話です。

私以上に苦しかった

それは、こんな子が生まれたら当然応援してもらえると思ってたけど。彼らにとっては、本音のところ、やっぱりあの子のことは受け入れられる体制が整っていなかったみたいだ。「諸悪の根源」もしくは「目の上のタンコブ」だった時もあっただろう。彼らの心情としては、「実の娘を苦しめる赤ん坊」だったわけ。何故私がそんな事を言うのかといえば、実の親だからこそ感じた体験をまとめた。

あの子は全前脳胞症だけではなかった。水頭症も併発していた。私たちは水頭症の手術をしないと苦渋の決断をしたので、投薬のみの対処治療となった。1日に何度もガンガンとくるケイレンと口腔内の吸引。時には、鼻や食道まで吸引チューブを差し込む。毎日見ている私でさえ瞬間ドキリとする事が度々あった。入院生活が長くなると、当然一緒にいる時間など、こちらから求めなければ無くなってくる。私でさえドキリとするくらいなので、たまにしか会わない孫の状態がそんなのだったら、祖父母にとってみれば、恐怖だろう。彼らは、なす術がなく、ただ見守る事しかできない。私もその祖父母の気持ちが理解できないわけではなかった。でも、こんな私達を見てくれてるはずだから、当然祖父母も受け入れてくれるだろう、「可愛い孫」だろうと思っていた。涙目で「なんでこんなことになったんだろうか」。これは、いつもいうセリフ。祖父母たちは、受け入れたかったけど、まだまだ乗り越えるには、時間がかかった。親はその子を育てて行く責任があるし、毎日病院との往復でバタバタしてたのでゆっくり考える時間さえない。会っている時は、吸引をしたり、全身状態を見るのに必死だ。家に帰れば4人分の家事全般と、あの子の洗濯物の山が待ってる。だからそんな事は、どこか心の奥のどこかスミの方に追いやってた。が、祖父母たちは立場が違う。立派に(?)に育てた娘の不幸。家で一緒に生活していないから余計に孫への実感がわかない。孫を可愛がりたいのだが、ダッコもままならないあの子をどうにもできない。そして、悲観的になってしまう。
あの子が、生まれてスグ、ベットで毎日泣いて苦しかった私を見舞いに来た祖父が泣きながら言った。「許されるものなら赤ん坊を抱いて一緒に死んでやりたい」。この時は、私の方も精神状態が極めて不安定だった。「そんな事される前に私が死んでやるから…」と心の中で呟いた。しかし、今になるとそれが祖父の全てを現しているのだとわかった。祖父母は家族に対してやさしすぎる。やさしすぎるから私を苦しめるものが受け入れられなかった。私と同じ様にあの子のことを思って欲しいなど、それは私の勝手。もっと、時間が必要だったと思う。

家にはいないけど

今までほんの数回しか帰れなかった。生後8カ月目の日帰り外出。9カ月目のの初正月。それから、ゴールデンウィーク、夏休み、そして、最後の秋の外泊。数える程の外出と外泊。帰れなかったけど、家の中には、いつもあの子がいた。祖父母もだんだんと受け入れようと努力していた。互いが、競う様に洋服を買ってくれるようになっていた。私は、そんな2人を見て、心底嬉しかった。
初めて買ってくれたのは、生後3カ月目の初節句。NICUの体温調節機能のついたベットで隔離室に寝かされていた。そのベットの頭のところに小さなオマケのような鯉のぼりをセロテープで止めた。嬉しくて、たまらなかった。初めてのプレゼント。あの子の為に、選んでくれた鯉のぼりは、たとえ、病室でも精一杯泳いでいる様に見えた。
時間はかかったが、ゆっくりゆっくりとあの子の事を考え、それを形にしていこうとしている。

ゆっくりと。

祖父母たちは、何故、すぐにあの子のことを受け入れてくれないのだろう--。そう思い、日々私は心を痛めていた。でもそれは、私の親であるが、親ゆえに娘可愛さで第三者のあの子のことが憎らしく、またどうしていいのか解らなかったのだろう。そんな祖父母の思いを、私自身が十分理解できるまで、随分、時間がかかった。一時は、そんな親を見て情けなくなったときもある。でもそれは、私自身が、わが子可愛さゆえに祖父母へも同じような愛情を要求していた、「甘え」にも似たものだった。焦る事なく信じて、ゆっくり、ゆっくりでいいんだね。
家族なんだからダイジョウブ。