4 闘病生活

今思えば、その彼女がいなければ、今の私はいないと言えるほど、私は彼女を信頼してた。彼女も誠心誠意頑張ってくれた。私は彼女のペースに飲まれていった。母乳を絞る練習も始めた。でもそれは母性より、責任感だったと思う。産後、病院に行けないとき、会えないときは手作りのシールを作ったり、洋服を作ったりしていたと思うのだけど、今では大地の誕生から1カ月間は何をしていたのかよく思い出せない。自分自身を無理矢理ふるいたたせていたような気がする。
NICUの看護婦さんは大地の写真を撮るからカメラを持ってきて、と言った。でも私は大地の顔が残ることが嫌だった。だからずっと渋ってた。手形を取ってくれたりして、皆がかわいい、好きだって言ってくれる。でもその時は「うそやろ」って思っていた。

でも5、6カ月目のことだと思う。「私は、看護婦さんより大地を好きにならなくちゃ」って思えるようになった。他のお母さんにも話しかけるようになって「うちの子を見て」って言えるようにもなった。でもその時思ったのは「同じ病気のお友達がほしい」ってことだった。

手術については何度もドクターと話し合いをし、手術内容の確認をした。大地は合併症で水頭症も併発してた。手術の危険性、手術後どうなるのかを聞き、ドクターに「どうするか選択してほしい」と言われた。大地はお風呂が大好きで、お風呂にはいるとびっくりした顔をしたり、うれしそうな顔をする。パパとずっと相談して「大地は生まれたかったから生まれてきたんだ。生命力があるから生きたくて、会いに来てくれた。勝手なことはでけへん」。そして、「アイツの自然の力を信じよう」と決めた。

状態が悪くなる度、ドクターには急変した時はどうするか、と尋ねられた。注射だけにするのか、人工呼吸器をつけるのか、心臓マッサージをするのか。「考えておいてください」って、およそ2カ月に1度くらいは聞かれた。そのたびに思いは揺れた。しかし、答えは、「初めに決めた通り(何もしないで下さい)」
と、伝えた。

それとは別に、移植コーディネーターにも話をしたことがあった。
臓器を提供するしないに、かかわらず、とにかく大地を残せる姿を捜していた。“生かせる”ものなら、移植で大地を残してやりたい。同じ苦しみの親子に大地からプレゼントしてやりたい、って。でも、最後の答えは「できなかった」。
大地の体を傷つけたくなかった。

平成11年の9月ごろになって、あちこちに顔を出すようになった。母親のつどいみたいなもので、大地と同室のお母さんに誘われて、H医大の隣の療育施設に行った。
その時は別の病気のママと子どもがいたが、1人のお母さんが「全前脳胞症って聞いたことあるよ」って教えてくれた。そして、すぐに同病の神奈川のAさんと松本翼君のお母さんに手紙を書いた。
それを機会にして、一度翼くんの家に全前脳胞症の家族が集まった。翼君のお母さんの話を聞いて、やっぱりおうちに帰りたいと思うようになった。

この、出会いがなければ、今の私の生活はなかったと思う。
週末在宅も私自身が渋っていた節があった。でも今のうちに帰らないとしばらく連れて帰れないような気がしてた。大地がしんどくなるのを一番避けてたけど、
「今、出来る事」をやろうって思って。それが、後悔につながらないんだと思い、週末在宅に踏み切ることを決心した。地元の社会福祉協議会に相談した。地域のサポート体制も安心できそうなだった。

そして1999年の10月末、初めて大地と一緒に家に帰った。いよいよ、在宅に向けて一歩踏みだしたんだ。二泊三日の予定。
親子4人、水入らず。妹の陽もハイハイして遊ぶ。大地と4人、畳みの上でゴロゴロした。初めてだった。うれしかった。胸が熱くなった。「連れて帰って、ほんとによかった」しかし、その日の深夜から大地が吐き続けた。ミルクを吐いて、胃液、胆汁まで吐いてもおう吐は止まらず、それがもとで誤燕性肺炎を起こしてしまった。

こんな事になるなんて……。
体力の貯金はなくなりつつあった。