2 出産前

印刷会社でデザイナーをしていて、ずっとハードワークを続けていた。

そろそろ、子供が欲しいと思ったちょうど結婚1年目。
そして待望の妊娠。指名での仕事も増えてきて、忙しいけど充実した毎日が続いていた。
公私共に順風満帆だった。つわりらしいものもあまりなく、体はさしてしんどくなかった。
ただ5カ月を過ぎたときに喘息が再発。内科医に妊娠してる事を告げ、気管支拡張剤で発作をしのいだ。

しかし、ハードワークは相変わらず続いていた。しんどいけれど、責任感も重なり、遅くまで仕事をしていた。勿論、先輩も気づかってくれたので、力仕事はなし。

妊娠8カ月目でも終電で帰るくらい。当時は大阪の住吉区に住んでいて、地元では有名な個人医院に行っていた。ここは超音波検査を3カ月目と8カ月目にしかしないところで、8カ月の定期検診の時に、私も超音波を受けた。
その時、思いもよらない事が、先生の口からでた。先生が検査の結果を見て「おかしい」と繰り返す。「頭に異常があり、脳が写っていない。どうしようもない」と言う。
私は、それがどう言う意味か解らなかった。
『何をいってるのですか?』

医者は、一通りの説明をした。そして、主人を呼ぶ様に言われた。しかし平日の日中。
そんな事は出来ないと言うと、一喝された。
「お子さんが交通事故だとすれば直ぐに呼ぶでしょ!」
その時は、今現在の、そしてこれからの事の重大さがわからなかった。
産院からの帰り道、泣きながら帰った。立って歩くのが精一杯だった。

その夜、主人と一緒にその産院に再度説明を受けに行った。
とにかく、この病院では処置もできないし、他の病院を紹介をすると言われた。

それで、里帰り出産予定のT市民病院を紹介されたけど、ここでもどうしようもないと言われて、H医大に行ってくれと言われた。そこの先生は「とにかく、産んでみないと分からない。母体優先でやってみよう」と言われた。

あの時、病院の産科へママに連れて来られていた小さな女の子。もう直ぐおねえちゃん。
待ち合いの場所で「アイアイ」を歌ってた。
それを聞くと、涙がどんどん出てくる。こんなにお腹が大きい妊婦が、夫に抱えられて、嗚咽して泣いてたら、どれだけ注目の的なのか。でも、そんな事どうでも良かった。

「私の子は、歌えない。死んじゃうんやもん」

そう思うと、広い病院の待ち合い室に、私だけが泣いてる姿があった。

何が何だか分からないものをお腹の中で大きくする恐怖に毎晩泣いた。

怖くて、怖くて、でも、胎動はある。
「生きてる」。そう、実感がある。しかし、それが空しい。想像するのは障害者を背負った私の姿。「どうしよう…」あの、判明した日から会社にも行けなくなって、子供が殺されたニュースを見てケタケタ笑ったり。
外にも出られなくなった。周囲の人が妊婦に声をかける時は大概同じセリフ。
「元気な赤ちゃん生んでね」。それを言われるのが嫌だった。だってゲンキじゃないもん。
道を歩く親子連れを見ると、駆け足でその場を離れ、人目もはばからず、泣きながら逃げかえってた。

そんな中に義理の兄から電話がかかってきた。
兄は主人に「その子はおろせ」と言った。主人は声を殺して泣いていた。
兄も泣いてるみたいだった。「兄弟だから、俺だから、お前に言うんやぞ」
兄夫婦にも子供がいてたし、兄弟仲もとても良かった。だからこそ、言ってくれたと思う。
でももう8カ月目でおろせなかった。それに日々、お腹を蹴ってるわが子。
頭に異常があると言うだけで、ほかには何も分からない。
「もう、オロセナイ」

夫は「産むまではがんばってくれ。後は俺ががんばる」と言ってくれたが、私自身は、その時も自分の子に障害がある可能性があるということは理解できなかったと思う。
受け入れる準備がまるでできていなかった。

医大でも苦しみが続いた。毎回の超音波検査。
診察の時はたくさんのドクターが入れ替わり立ち替わり、私をのぞいていく。顔を見てお腹を見て画像を見る、という感じ。初めての出産で「これが普通なのかも」と思ったりした。でもそれが、毎回の診察なので嫌で嫌で仕方なかった。超音波で見る子供の成長は、単なる確認作業。私には、喜びもなにもない。

病院では、「出生前診断はできない」と言われた。でも私には「知っているけど言わないでおこう」ということかなと思えていた。
「何か、隠してる」

後で病院の関係者から聞いたことだが、大学病院は産科は母体を優先し、生まれてきた子供のことは小児科の仕事というスタンスだ。だから、両科の足並みがそろわなくて、母親の心のケアなんてできないんだ 。と言っていた。